おはようございます、あじさいです。

今日はおすすめします、とは言えない映画についてです。
なぜかというと、かなり疲弊するから。ぐったりしてしまうからです。
中世を舞台にした強姦事件を3人の視点で描いたもの。
マルグリット(ジョディ・カマー)が夫ジャン(マット・デイモン)の元親友であるジャック(アダム・ドライヴァー)に強姦されたとして訴え、それを当時行われていた決闘によって勝負を決める。
同じ場面でも誰が主になるかで見え方が違ってきます。
例えば、ジャック視線の第2章では、元親友ジャンの妻、マルグリットと会う場面で、ジャックは勝手に彼女が自分に気が有ると思い込むんだけれど、マルグリット視線の第3章では、そんなことは全くなく、それどころか彼の悪口を言っていたりする。
同じ事実であっても、当事者が思う事感じる事が変わってくる、認知の違いが生まれるといったことを露にする手法なんだと思います。(映画「羅生門」的手法と言われてます)
おすすめしない理由1
強姦シーンが2度出てくるから。
2章のジャック、3章のマルグリットで同じシーンを観なければいけないんです。
かなりきついです。
3章のマルグリット編では短くなるかと思って観てたんだけれど、そんなことはなく…
観るひとによってはかなりトラウマティックなので注意が必要かと。
この描き方については、ちゃんと見せないと「ほんとにあったかどうか」わからないから、という意見もTwitterで見ました。
でも、私はこちらの意見に賛成します。
『最後の決闘裁判』MeTooを受けて作るなら「あなたが酷い目にあったことを我々観客は目撃した。あなたを信じます」ではなく、「あなたに何が起こったのか我々には目撃する事はできない、でもあなたの訴えを聞いて信じます」というアプローチがあり得たのでは?という事を言いたかったのです。 https://t.co/AwWmMinCqM
— 丙ウマ・サーマン (@hinoeumathurman) October 16, 2021
おすすめしない理由2
決闘裁判というもの自体が不条理過ぎるし、描写がかなりグロいから。
いや、これほんとに中世でやってたんですよ、史実ですよ、って言われるかもしれません。
女性には裁判権はなく、夫が裁判を起こし、それを決するのに男同士が決闘を行う。
真実は横においておき、その決闘で勝ったものが「勝ち」で、もし、マルグリットの夫ジャンが負けたらマルグリットは嘘を吐いていたと見做され死罪になってしまうという実にばかばかしいもの。
魔女裁判と似たものを感じさせます。
北村紗衣氏がブログに書いているように、
明らかに#MeTooを意識した作りで、性暴力にあった女性の主体性が置き去りにされ、結局男性同士の見栄の張り合いに回収されてしまう様子を皮肉をこめて描いている。とくに最後の決闘が意図的にかなり見苦しく、ロマンティックな騎士道的雰囲気を完全に剥奪されたものとして提示されている。非常にちゃんと戦っているところを撮ってはいるのだが、女性の権利が尊重され、法が公正であればやらなくていいことをわざわざ男同士で面子のためにやっている…みたいなばかばかしさがいろいろなところからにじみ出る演出で、一応きちんと終わるのだがあんまりすっきりしない。このあたりはいかにもリドリー・スコット(しかも明るい気分でない時のリドリー・スコット)という感じで、大変よく描かれている。
確かに「ばかばかしさ」がにじみ出てたと思うんです。
自分の運命が、夫、それも負けたら自分が死罪になってしまうことを隠して己の見栄とプライドと「自分の女を寝とられた意趣返し」としてひとりで決闘を決めてしまう自分勝手な男、に委ねられていて、夫が負けたら、自分は死なないといけないんですよ。
そんな不条理なことありますか。
もちろんそれを暴き出すのがこの映画の目的のひとつだったんだとは理解します。それでも、この映画を観てよかった、という気持ちと、苦しくなってきつい、という気持ちを天秤にかけたら、後者の方が重いです。
わざわざ中世に時代を移してこれを描く必要性があったのかどうか?もちろん、中世での出来事は決して終わったことじゃなく、現代にもつながっていて、未だに我々とそう変わらないという気づきを与えるという役目としての映画なのは理解します。
こちらのブログを読みました。
エロ消費でなく暴力として描き切ったという評価もみかけたが、レイプがひどい暴力であることの再確認は本当に必要だろうか。インティマシー・コーディネーターを入れ、ジョディ・カマーが覚悟を持って臨みアダム・ドライバーがリスペクトを持って作っても、女性への性暴力描写が女性の尊厳を踏みにじるものであることに変わりはない。わかっていて酷いシーンは酷いシーンとして必要性を感じながら観られたというなら、それがコンテンツ消費じゃなくてなんなのか。
私たちはドラマや映画を楽しんでいる。でも単なる「コンテンツ消費」にしてはいけない。
「消費するだけ」にならないようにしたい。
あじさい
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