小田急無差別事件について私が考えたこと

考える

こんにちは、あじさいです。

気分が落ちる事件が起きました。

リンクを貼ろうと思ったら、犯人の顔がサムネイルで出てきてしまうのでやめます。

 

電車の中で女性を選んで刺す。犯人は自分の今の状況を「女性」のせいだとし、女性に悪意を向け、殺そうとする。

 

果たしてこれは、特異な事件だろうか。犯人がおかしい人なんだろうか。

 

私は50代、若くないからこの犯人のターゲットにはならないだろう、とか、電車に乗ることは稀有だから他人事だな、と流していいんだろうか。

 

自分が若い時のことが記憶に蘇る。

 

家からバス停に行くまでの間に、中年の男がコートを着ていて立っていて、コートをはだける。何も着ていない。私は誰にも相談できない。

 

満員電車でスカートをめくられる。股間を押し付けられる。座席に座っていると、横に座った男が腕組みしながら胸を触ってくる。誰にも相談できない。

 

何度かそういう経験しながら誰にも言えずにそのまま口をつぐんできた。

 

自分が女性だからという理由だけでされたこと、言われたこと。セクハラ。平均的な回数やひどさがどれほどのものなのかわからないのだけれど、やっぱり諦めて無かったことにしてはだめだと、何年も経った今、思うのです。

 

二つの記事を読みました。正反対の記事かもしれません。正反対なんだけど、両方とも頷きました。

n=1で社会を語らない - 斗比主閲子の姑日記
しばらくブログの更新はお休みししていました。気になったことがあったので簡単に書いておきます。 どうやら集団を対象にした殺人未遂があったようで、そのニュースに対して、「○○という属性の人が窮地に追いやられていたことが原因だ」とか、「攻撃対象が○○という属性だったのはいつものことだ」とか、色んなコメントがSNSで流れていま...

例えば、犯罪の認知件数はここ10数年以上に渡って減少傾向にあり、殺人事件もずっと減少しているのはご理解の通りですが、被害者でみれば男性も女性も等しく減少傾向にあります。<中略>

日本は驚くほど犯罪が減少している国なのは間違いありません。にも関わらず、n=1の事件で、加害者属性と被害者属性に着目して、同じような犯罪が多く行われているのではないかと思うと非常に生きにくくなります。

ほとんどの男性は犯罪をしていませんし、ほとんどの女性は犯罪に遭遇していません。妊婦が攻撃されるなんてことはまず起きません。

そんなレアケースのn=1に脳みそのリソースを費やして恐れるぐらいなら、私は日々の生活での手洗いの励行を忘れないようにしたいと考えています。殺人事件や暴力の被害者になるより、病気に感染するほうが私によってはよほど可能性があるからです。

ここに書いてある通りだと思います。この著者が出してくるエビデンスは信ぴょう性が高いと思っているので犯罪自体が少ない国なのは間違いないし、減少しているのもそうなんでしょう。

 

目の前にコロナという身近で見えない敵がいる生活では、こういう事件に気持ちを煩らわされて余計な雑音をずっと頭の中に住まわせるより、頭の中から追い出して、違うことを考えている方が上向きだし健康的。

 

と思いつつ。

 

この記事を読んでまた違う感慨を持ちました。

『ロンドンで起こった女性への性暴力・殺害事件と#NotAllMen(ノットオールメン論法)がフィンランドでどのような議論を巻き起こしたか』 | Northmall+(ノースモールプラス)

痴漢やDVなどの性暴力の問題について考えなければいけない場で、「すべての男性が加害者ではない」と言ってしまうこと・考えてしまうことは、目的を自己保身や犯罪の矮小化にすり替えてしまい、被害者の女性の声をかき消し、本来の目的をないがしろにしてしまう効果を持つ。結果として、歪んだ社会構造の助長に間接的に加担していることとなる。「女性と一部の異常な男性の問題」または「お酒を飲んでいた・薄着をしていた・深夜に出歩いていた女性側の問題」と、自分ではなく他の誰かの問題だとみなし、問題にすら取り上げない時点で、性犯罪が起きる社会構造や不健全で不平等な現状がある世の中から目を逸らし、その構造に対して補完勢力として働いているということを、世界中のフェミニストは指摘している。

何も声をあげない、事件への考えを表に現わさないことで、問題のある社会構造や現状を肯定していることになるのかもしれない、とも思う。

 

だから、私はここに書き記しておこうと思いました。ここに書いたからと言って、何か大きな影響を与えるとは思わないけれど。

 

もしあなたの傍に、若い人たちがいるのであれば話題にしませんか。この事件は「n=1」であると同時に、未来に身近に「起こるかもしれない」性差別、DV、セクハラなどと地続きでもあると思うのです。

 

若い人たちがどう考えていくかどう行動を起こすかで、その芽を、性差別そのものを、減らせる方向へもっていけるかもしれない、と思いたいです。

 

一緒に住んでいる下の娘とはこういう件に関してよく話をします。義父が、女性が襲われた事件があったようなときに、そんな時間にそんな洋服で歩いているからだ、と被害者のせいにしがちな考え方の持ち主なので、そうではない、と明確に娘には話します。

 

父や義父や夫の持つ「家父長制」の考え方や、性差別の発露を見つけた時にそれを指摘するということはこれからもやっていきます。長年身に付いた習慣や考え方はなかなか変えられないとは思うけれども…

 

決して男女間の対立を際立たせたいわけじゃないです。いつものようにTwitterで繰り広げられている罵りのようなやりとりはもう見ないことにします。性差という意味でのお互いへのヘイトは何も生まないから。

 

昨日、Twitterで見つけたこのツイート。

誰かの大切な人だから傷つけちゃいけないんじゃない。その人自身が大切なひとだからなんだ、と。

 

これに付随して、この記事。アメリカで起きた有名プロデューサーの性加害に関連して。

この事件で、俳優(男)がハーベイ(セクハラ、性加害したプロデューサー)に関連して「その人(若い女性)は、誰かの娘だったり誰かの大事なひとなんだから傷つけるな」という言い方がをしがちだと。

 

男が男に向かって、「彼女は男が大事にしているから大事」という論理はかなりグロテスク。でも、「誰かの大事なひとだから大事」という理由付けは、簡単に受け入れられがちなんですよね。

 

でも、誰かが大事なのは、決して誰かとの関係性に帰するからじゃない。

 

82年生まれ、キム・ジヨン

映画を観て感想を書いたことがあるこの本。お盆休みに読もうと思います。

[映画]「82年生まれ、キム・ジヨン」<ネタバレ感想>自分や母のことを振り返ってしまう映画

 

それでは。

あじさい

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