宇多田ヒカルの「Fantome」を聴いて思い出したある方の死

徒然

8年ぶりに出た宇多田ヒカルの新譜、Fantome。(今日は旧ブログに書いていた記事を再編集しています。)

デビュー曲からずっと聴いていたので、「人間活動」を経て彼女のロングバケーションがとうとう終わったんだなぁと思って、とても嬉しかったです。

 

Fantomeというのは、フランス語で「気配」「亡霊」「幻」という意味があるそうで、2013年に亡くした母、藤圭子への思いが散りばめられたアルバムです。

 

若くしての成功、実の親が担うプロデュース、そこから逃れるような初めての結婚、あまりに売れ過ぎることによる社会での虚像と自分自身との乖離。そこからの長いおやすみ。

 

母の死後2度目の結婚をし、母となり、人としての成長とともに、若い頃に作った歌にあった先鋭的というかゴリゴリしたものがなりを潜めた代わりに出てきた安定と成熟を感じ、アルバムラストの「桜流し」が終わった後、涙が出て止まりませんでした。

 

歌の端々に宇多田ヒカルの母への思いを感じていたら、私もある方を思い出しました。

 

その方とは、実は一度も会ったことがありません。電話で1度話をしたきりです。

 

ネットを通して知り合って、ブログやTwitterでやりとりをしていました。私が中学で英語を教えていた時に悩み、助けを求めてネットを彷徨っていたときに知った、自分の塾で教えてらっしゃったプロの先生でした。

 

そのうちメールで直に教えを請うたりし、大事なことを教わりました。私の頼りなさに業を煮やした先生が直接電話で話しましょうと言ってくださり、電話で緊張しながらお話ししたのが、2011年。

 

そのすぐ後、先生が入院したとブログで知り、それほど経たないうちに、共通の知人から先生が亡くなられたと聞きました。

 

その時に感じた喪失感というのは説明のできないものでした。会ったことがないので現実のものとして考えることが難しく、でも、ブログやTwitterが更新されることはない。

 

今でもそのブログやTwitterアカウントは存在し、私へのリプライもそこに残ってます。ネットというのはある意味残酷なものです。主がいなくなっても、いや主がいないからこそ誰も削除できず、そこに残り続けます。なのに更新はされない。

 

私は宇多田ヒカルの歌を聴きながら、先生のことを思い出し、どこにも持って行き場のない気持ちを感じながら、でも涙を流すことで落ち着いたり区切りをつけたりできることもあるのではないかなぁと思ったりしています。

 

宇多田ヒカルも、母の死後、常にその存在を感じていた日常が、アルバムを出したことで気持ちが落ち着き、それほど母を見ることはなくなったそうです。

 

そんな彼女の作った歌を私たちが聴き、亡くなったひとに思いを馳せる。歌の持つ力が鎮魂と癒しと前進を与えてくれる。ありがたいことです。

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お越し下さりありがとうございました。

あじさい

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