10年前の2011年3月11日。東日本大震災が起きた日。
私自身は震度4くらいの場所に居て、地震そのものも大したことなく、被災した親戚もおらず、関東のように大規模節電もなく、映像やニュースでしか震災を知ることがないまま、10年が経ってしまった、というのが正直な気持ちです。
気持ちは薄れます。
私の母が去年亡くなった時の悲しみも日々薄れていくのを感じます。
記憶や感情が薄れないと、前を向いてやっていけないという側面もあると感じつつ、この震災は、揺れや津波だけでも物凄い被害だったのに、原発のメルトダウンによって未だに起きている放射線のリスク、帰宅困難地域の存在、放射線汚染物質を最終的にどこに貯蔵するのか等々、原発に関する問題が山積みで、このことを忘れてはいけないし、終わらない苦悩と待ち受ける難題にくらくらしてきます。
ですよね。3月11日前後だけとつぜん祭りになるのは僕も以前から違和感を感じてました。
当時、津波に家族を流された子の音源リリースを手伝った時「あの日を忘れない、みたいに外の人は言うけれど、出来れば忘れたいんですよね」と心境を教えてくれて、個人的に、忘れないという言葉は使わなくなった。 https://t.co/JOjr7bKBpE— 七尾旅人 (@tavito_net) March 11, 2021
「あの日を忘れない」のような、センチメンタル風味の外部からの文言じゃなく、未だ解決してない原発関連の問題を忘れない、ことが必要なんだと思います。
さて。昨日のNHK「おはよう日本」を見ていたら、双葉町にある小学校に出向いて取材をしていました。
教室にはランドセルや教科書が机の上に置かれたまま。黒板には子供たちが書いたと思われる言葉もそのまま。
帰ってこれないなんて誰も思わないまま、地震に続く原発の事故により、着の身着のまま双葉町から全町民が避難。そのまま10年経った今も、その教室はそのまんまなのです。
置かれたままのランドセル。が物語るものがすさまじかった…
その当時小学6年生だった生徒は今はもう22歳。その方々が久しぶりに双葉町を歩きながら、猫の声も鳥の声もしない、無音だなぁって言っていたのがもうね…
2020年3月に帰宅が一部許可されたもののその面積はわずか。そして一年後の現在がどうなっているのか新聞記事がありました。
戻りたい意思を表しているのは元住民の1割…
10年のあいだに暮しの基盤ができていれば戻りたくても戻れないだろうし、未だ続く放射線への不安から戻りたくない人もいるだろうし、なんとも言える言葉はないです。
私にも何かできないか。
助けになるかならないかわからないけれども、何かしらやりたいなぁと思う。
宇多田ヒカルの「桜流し」を聴きながら亡くなった母を思い出しつつ、できることを考えてます。
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お越し頂きありがとうございました。
あじさい
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