「丁寧な暮らし」とコロナと死者数の少なさと

暮らし

「丁寧な暮らし」というワードについて私の考えること。書きます。

言葉への批判

高度経済成長期が終わって、バブル時代が来て、あっという間にそれも終わって、雑誌もファッションから暮らしやライフスタイルの重要性を謳いあげるものが発売されていく中で、いつのころからか、「丁寧な暮らし」という言葉を見かけるようになりました。

ただ、この言葉が持つ響きというかイメージというか、決して肯定的なものとして受け取るだけじゃないもの、というのがネットを見ていて感じます。

なぜ「ていねいな暮らし」はブーム化した一方、批判も噴出するのか(阿古 真理)
2010年代半ばから、「ていねいな暮らし」という言葉が流行っている。しかし同時に、インターネット上でバッシングも起こった。今でも、「ていねいな暮らし」というキーワードで検索すると、批判的な記事やコメントがすぐに見つかる。なぜ、「ていねいな暮らし」は憧れの対象となり、同時に批判されるのだろうか? 

批判の原因は、本来は家事を楽しみとして捉え直す提案に過ぎなかったにもかかわらず、「あるべき姿」というプレッシャーに感じた人が多かったことである。強制のように感じる人がいるのは、生き方に正しさを求める社会風潮と無関係ではないだろう。

日本特有の現象が確かにある

この言葉から、自分の暮らしへの強制、正解と捉えてしまうその風潮は、日本のもつ特異的な食事のバラエティの多様さ(洋食、中華、和食、イタリアンなど)とも関係あるだろうし、女性の地位や求められている理想像の世界的にみる遅れなども関係あると思う。

バラエティ豊かな食事によって、毎日の献立に頭を悩まされ、温かい食事を3食作らなければ、という義務感を生み、それができるのは良い主婦、そうでないのはダメな主婦、といった呪いが確かに存在すると思う。

だからこそ、土井善晴氏の「一汁一菜でよいという提案」という本が売れてると思う。”でよい”という言葉で、献立を多く作らければと思いこんでいる私たちにそうじゃないんだよ、と思い込みを壊そうとしているんだと。

このようなツイートも見つけました。

自粛で三食作るのがストレス、というのもよく見かけるけれど、冷食や中食やテイクアウトを利用してまずは自分の負担を下げるのはどうだろう?と思ったりする。

マスクをつけるのはなぜか

世界的に日本でのコロナによる死者は少ない。それは、マスクをつけるのが習慣になっていることもあるとは思うけれど、コロナそのものが怖いというよりもコロナ感染者への村八分的な批判非難への恐怖から感染しないようにしようと考えている人が多いのが大きな原因だとも思う。

村八分がいまだに起きる社会。農耕民族であるゆえの同調圧力への異様な弱さ。みんながそうだからそうやらなきゃ、というのは学校で教えてることだし、出る杭は打たれる社会の功罪が死者数の少なさを物語ってるんだと思う。

うちはうちよそはよそ

言葉ひとつに、言われてもいない強制や、自分の環境や性格故にできないことなのに、その言葉批判に繋がっていく。でもとても理解できる。

それは、日本そのものだと思う。

でも、子どもが何かが欲しいとき、例えばゲームとか、○○ちゃんは持っている、という理由を言うと、親が使う常套文句「うちはうち、よそはよそ」といって撥ねつけると思うのだけれど、全部それでいけばいいんだと思う。

何かが理想のように言われても、できないのであれば、よそはよそ。

誰かがインスタですてきな写真をあげる、カッコいい洋服を着てる、手のかかる食べ物を作ってる、ミニマルに暮らしてる、ていねいな暮らしをしている。

同じようにしたい、と思うのであればする。できない、したくない、ならしない。

それ以上に何かしらの批判や文句を言う必要あるかな?

私は外国で暮らしていた時のことが自分のなかにベースにあるからかもしれないのだけれど、意見の違いは普通だし、考えを表明することが大事だし、素晴らしいことをしている友人がいれば褒め、やりたければ真似をする。

僻むこと、いちばんやりたくないと思う。私には眩しい人々が世の中にはたくさんいて、すごいな、いいな、と思うけれども、そこで僻んでもなにひとつ進まないし、ましてやそれを批判するなんて非生産的なことはしたくない。

最近気づいた「丁寧な暮らし」

最近気づいたことがありまして。私の「丁寧な暮らし」って、ご飯粒を大事にすること、だと。時間がなくて急いでて、ご飯粒ちょっとくらいならいいかってそのままお釜を水に付けてしまったり、お米を研いでいるときに一粒二粒流れてしまったときに、まいいか、と思ったり、を思わないことだと気づきました。

お米一粒を大事にすること。私の「丁寧な暮らし」はそれだ!と。

最後に、今年最初に新しく「暮しの手帖」の編集長になられた方の言葉がとてもいいなと思ったので紹介しますね。

暮しの手帖社 | 新編集長からのご挨拶
前列右から小林、長谷川、平田、北川、高野、佐々木、田村、中村 後列右から井田、菅原、上野、村上、圓田、久我、宇津木、空地 はじめまして。今号から編集長となりました、北川史織と申します。 この場をお借りして、いったい何をお伝えしたらいいものか、書いては消し、消しては書きをくり返しましたが、もうそろそろ時間切れ、まずは自己...

4号の巻頭企画のタイトルは、じつはなかなか決まりませんでした。
「丁寧な暮らしではなくても」。そんな言葉が胸の奥からすっと浮かび上がってきたのは、たぶん私のなかにずっと、「丁寧な暮らし」というフレーズにたいする懐疑があったからだと思います。
でもどうか、誤解しないでくださいね。私は、「一日一日を丁寧に送ること」を否定したいわけじゃありません。ただ、そうした暮らしぶりの中身は一人ひとり違っているはずなのに、「丁寧な暮らし」というラベルを貼ったとたん、のっぺりと無個性に思えてしまう。「そういうのは、ゆとりのある人だけにできることじゃない?」なんて、やっかみも生まれる。それがどうにもいやだったのです。

ただひとつ言えるのは、丁寧であろうとなかろうと、私たちの暮らしに必要なのは、自分なりの「納得」ではないでしょうか。いのちを支える「食」さえも、お金を出せば、ひとつも手を動かさずに賄えてしまう時代です。大きなものに巻かれず、自分の手と知恵をはたらかせて、一生懸命に、正直に、素のままに生きていこう。4号には、そんな思いをこめました。

自分なりの「納得」。それは自分自身が感じる満足ということでもあると思います。そこにほかの人は入ってこない、だれがなにをしようと言おうと、自分が信じればそれでいいんだと思います。

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お越し頂きありがとうございました。

あじさい

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